美しき心 1回目のテレビ寺子屋放送
2022.06.27(月)
4月にさくら台幼稚園にて収録した金澤祥子、泰子さん。
1回目テレビ寺子屋の放送が6月19日にありました。
娘の翔子は2022年6月で37歳になります。私は37年前、涙に暮れながら娘がダウン症だと告知を受けました。当時は障がいを隠して育てる時代。それがとてもつらいことでした。
小学校は近くの公立の普通学級に入学しました。ただ、翔子は何をやってもビリでした。私が先生に「手がかかる子を預けて申し訳ありません」というと担任の女性の先生は「いいのよ。翔子ちゃんがいるとクラスが優しく、穏やかになるのよ」と言ってくれました。この言葉は私にとって福音でした。「そうだ。ビリをやっていこう。神様は不要なものはつくらない…」翔子の役割をみつけて覚悟を決めると楽になりました。そして翔子の友だちを作ろうと思って始めたのが書道教室でした。
ところが小学4年になった時「これ以上、普通学級で翔子ちゃんを預かれません」と特別支援学級を勧められました。私は納得ができず、対応を決めないまま学校を休ませてしまいました。ひきこもりのような状況で、ずっと外に出ない日が続きました。苦しい中、私は翔子に『般若心経』を書かせようと思いました。般若心経は難しい文字の羅列で、いま思うと無謀なことだったかもしれません。翔子は朝から晩まで泣きながら書き続け、その文字は3千字を越えました。翔子の書の基本はこの時に確立したのだと思います。
その後、特別支援学級に通い始めると、翔子は毎日楽しそうに通い、喜んで帰ってきます。私はその姿を見て「翔子自身はダウン症で生まれたことを悲しんだり、嘆いたりしていないのでは?」と初めて思いました。そして尋ねてみました。「翔子、ダウン症ってなあに?」すると翔子は少し考えて「書道のうまい人のことかな」と答えました。母親の私が「みんなと違うから」「希望が持てないから」という世間体に苦しんでいたのであって、翔子は少しも苦しんでいなかったのです。
翔子が14歳の時に父親が心臓発作で亡くなりました。52歳でした。父親は翔子の書の才能を認めていて「翔子が20歳になったら個展を開いてダウン症のこともお披露目しよう」と話していました。その言葉を思い出し、思い切って1回限りの個展を開きました。その個展がメディアに取り上げられ大勢の人が会場に来てくださいました。
私はいま「闇の中にこそ光がある」と思っています。その闇が暗くて悲しくて、深いほどそこに用意されている光は強く、希望も大きいのです。
翔子が30歳になった時、ニューヨークの国連本部でスピーチをしました。世界ダウン症デーの日本代表としてのスピーチ。つたない言葉でしたが翔子の7分間のスピーチを聞いて「お母さんは世界一幸せだ」と素直に言えました。思えば30年前、ダウン症の告知を受けた日から始めた日記。その最初のページには「私は世界で一番悲しい母親だろう…」と綴っていました。30年後の翔子は私を「世界で一番幸せな母親」にしてくれました。闇の中には必ず光があるのです。
※ テレビ静岡テレビ寺子屋参照